「大晦日はうちに来てください」と前々からユリア後輩に言われていた。9時に行く約束だったがバスが遅れて到着が9:30になった。料金も22ルーブルではなく、40ルーブル。年末特別料金か。バスの中は綺麗に飾られていた。日本では絶対にお目にかかれない装飾。かわいらしい。
ユリアの自宅に着くと色々な料理が出され、まずグルジアワインで乾杯。そのあとはシャンパンを飲んだ。酒を満たすたびに何度も乾杯するのがロシアの流儀。料理は、パテ、オリビエサラダ、キャベツのサラダ、黒パン、シャシリック、トマトとチーズなど。メンバーは私、ユリア、リュードミラ(母)、ガリーナ(祖母)の4人と座敷犬のムフタル。ムフタルは大人しくて人なつこい犬だった。
ガリーナは86歳。私の母とほぼ同じ年齢であるがかくしゃくとしていてよく喋るしよく食べる。背筋もシャンとしている。私は自分の母のことを思い出して少し切なくなった。母も認知症にならなければ昔と同じように一緒に楽しく過ごせたのに。普段、私はこの感傷に浸ることを自分に許さないが、この時だけはちらっとそう思った。
ガリーナには戦争の話を聞きたいと思っていたのでためらわずに聞いた。通訳はもちろんユリア。独ソ戦が始まった時、ガリーナは4歳。前にも述べたようにキーロフは幸いにも戦場にはならなかったが多くの人が徴兵された。ガリーナの父も徴兵されたが、ある日ひょっこりと前線からガリーナの幼稚園に戻り、ガリーナを抱きしめてくれた。その時、同級生の母たちが口々に私の夫の消息を知りませんかと父に尋ね、父が部隊が違うのでわかりませんと答えると母たちはみんな涙を流した(ガリーナの記憶)。父は前線に戻り、負傷して帰宅。一命は取り止めたが戦後も冬になると後遺症で入院しなければならなかった。独ソ戦ではソ連の損失が甚大で詩人のアサドフは失明し、同じく詩人のタルコフキーは片足をなくしている。ガリーナの母は毎日、昼間働きながら夜は軍服を縫製していた。
食事のあいだ中、テレビはつけっぱなしでロシアで人気のTVドラマを見ていた。それが11:55ごろにプーチンのスピーチに変わった。毎年恒例らしい。スピーチは12時ジャストに終わる。ダラダラ長く喋らないのはいい。ユリアはプーチンに批判的だが、ガリーナはプーチンに「Спасибо」と言っていた。
それからは歌番組になってユリアやガリーナはちょっと踊ったりした。ロシア人はディスコ調の踊りが大好きである。私は踊る元気はなかったので踊らなかった。
大晦日は寝ないで楽しむのがロシアの習慣らしい。花火もあちこちで上がる。見ていると日本よりも小型の打ち上げ花火をあちこち移動しながらあげているようである。音もポンポンと軽い。私も午前4時ぐらいまでは起きていたが流石に眠くなり、そのままソファで寝てしまった。ユリアがそっと薄い毛布をかけてくれたのはわかったし、隣のソファにいてくれたこともわかっていた。朝までずっとテレビはつけっぱなしだった。
朝は8時過ぎに目を覚まし、コーヒーとパンをご馳走になってからお礼を言っておいとました。